【豊中駅前の歴史:64】住宅都市豊中の原点を求めて(2015年3月)

住宅都市豊中の原点を求めて「新修豊中市史」より
平成10年に市制施行50周年を記念して発刊された「新修豊中市史」はわがまち豊中を知る貴重な示唆が随所にみられます。今号ではその「第九巻 集落・都市」から引用し、文化都市、田園都市と呼ばれるようになったその背景をお伝えしたいと思います。

「第8章豊中の将来像に向けて“3 戦前期の豊中と戦後への継承”」の中、寺内 信先生(当時大阪工業大学教授)は以下のように述べられています。「明治以降、特に鉄道が開通して以降、いわゆる都市化・市街化、言い方を変えると工業化を背景にした都市化の地域として、突然、豊中が脚光を浴びることになりました。電車を走らせることを取り上げても、阪急の場合いろいろな経緯があって、・・・(京阪電車や阪神電車は街道に沿って敷設されたが)阪急はどうかというと、十三から三国までは能勢街道に沿ってですが、それ以外は独自の線路なのですね。・・・そこで経営者がいろいろ手を打つのですが、起死回生の手段として住宅経営を考えてみるということで発足した。それがうまくいったのですね。・・・地形的にいいますと、南下がりの斜面といったらおかしいのですが、住宅地になり得るような、だからといって山を削ったりしなくても、そのままの状態で使える土地が結構あったということではないでしょうか。それを象徴的にいいますと、豊中駅前の豊中住宅地というのがそうなのです。単に住宅地を開くだけではアピールしないということから、全国中等学校優勝野球大会というアトラクションつけて、近代のマスメディアを利用して開発に努めたということです。そういった近代そのものをそこにつくってきたということが、豊中が大きく発展する理由であったと思います。それからもう一つ、ちょうど20世紀の初めに住宅開発を始めるのですが、約30~40年という時間をかけて住宅地を定着させていく、一世代を10年としますと、3世代の間にゆっくりと定着するということで、あせらずに住宅地をつくったというのが特に役立ったような気がします。」
【中略】
「戦前は郊外住宅地をつくったとしても、今のような大阪と豊中という関係ではなく、おおらかに豊中にお住まいになって大阪に勤務されたようです。どちらかというとサラリーマンの一般のための住宅ではなくて、エグゼクティブな人たちの住宅地ということで成立していて、それが都市というものの骨格になったと思います。その辺りが近代の起こりだったと感じますね。そのときにつくられた町は、それなりに居住環境を持ってつくられたと思います。それがある意味で質がそろっていたといえるのが豊中の特徴です。しかし、そういうストックをどういう形で維持していくかというのは、その後のある時期まで持続するのですが、どちらからというと、どうも守りきっていけないような状態が増えてきたようです。・・・行政の責任といえば行政の責任かもしれません。まあ社会の体制がそういう方向で進んでいるのかもしれません。それに見合うような形の対応措置をこれから考えないといけないということになるのだろうと思います」

「新修豊中市史」:市役所市政情報コーナー(第二庁舎2階)や市立図書館で閲覧できます。


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