【まちなかの散歩:79】思い違い(2015年3月)

 3月。入学・入園、卒業・就職・退職、転勤・転校・・・・・・。各人・各家庭で色々な節目の月である。国際社会に合わせて「9月入学」と言っていた大学改革は何処に行ってしまったのだろうか?
「市民生活を支える」役所も年度末の月である。4月から3月までの『年度予算』で役所の金は使われていて、来月4月からは新しい予算で仕事がされていく。「府県や市町村という(地方)自治体には能力がない」とこれまで散々言われてきた。首長(知事・市町村長)の能力、その指示に従って「市民のために」仕事する職員の能力不足は厳しく指摘される。昨年は地方議会の議員にもその矛先が向けられた。それに引き換え、制度上、自治体に権限や財源が与えられていないことに触れられることは案外少ない。
 地方創生で、政府は地方が“自由に使える”『交付金』を出すという。国・自治体を問わず税金を配分する権限を委ねたのであるから、その一定の枠内で国が「地方」に税金を配分し、それが自由に使えるとしてくれている。「一歩前進、ありがたい」と喜ぶのか、「そうは言っても、国の補助金など大枠の配分はまだ国に残り、国の権限拡大・自治体コントロールは依然強いぞ」とみるのか、悩ましいところではある。
 12月国政選挙で囁かれた「財務省と安倍首相の対立構図」は、ごく普通に過ごしている国民には無縁だが、国が財源を細かなところまで指図すると、身近な政府(市町村)が機能しなくなるという方向性となる。これは困りものではないか。納めた税金の使い道を身近なこところで点検できることが出来なくなって、それが当たり前のように思えてきている。人材不足を理由にして、折角の「国からの金」を使いきれないと批判された1月の阪神淡路大地震、3月の東日本の大地震の復旧・復興、地域活性化の動きがこんなシステムで歪められていないか。自治体の仕事の量とそれに要する権限と財源の比率は見合っているのか?国民からの税の配分は自治体3:国7で、仕事は逆に7:3とよく言われる。それだけ自治体の仕事が多いのに、財源や権限のことで、知事会も発言しなくなったなぁ。先行きを思うとチジに心が乱れる。原発立地の容認・否認の権限が実質なくなっている。国民に丁寧な選択をさせずに勝手に決めすぎる政府の横暴が目立つ。もっと地域から市民から、「お上にばかり任せて、不透明な基準で税が配分されるなんて嫌」、「我々も自分の納めた金を使う訓練をもっとさせてよ」と声を上げても良いのではないか。
 ところで、まちのおばちゃん・おっちゃんが「うちの市は赤字や。あかんでぇ」とテレビの質問に答える。極論にはなるが、府県や市の財政が赤字でなく黒字になれば市民が助かるのだろうか?病院・大学が身近に沢山あって安くて充実しては困るのか?交通、保育所など日常生活に必要な施設が充実していることは市民にとって困ることなのか?福祉が充実して困るのか?・・・税金を市民サービスに使ってくれなければ、「料金前払い」で収める役所の財布は黒字になるが、それは困る。無駄、無駄と言いはやして、お上に吸い上げられた税金を市民サービスに使わずに溜めて、一体何処に使うのか?その配分を現場も知らない輩に決められてはたまらない。海外事務所の2重設置などの無駄は行政職員が熟知しているだろうに。行政改革は行政内部の改革を櫂より始めて貰いたい。春は府議・市議の選挙が待っている。
 やっと彼岸である。「暑さ寒さも彼岸まで」といわれ、「お水取りが終わるまでは暖かくならない」とも言われてきた。鯖街道の始点としても知られる小浜(おばま)にある若狭神宮寺での神事「お水送り」を終えて遠く奈良・二月堂に送られた水は「お水取り」され、世の中の平穏を祈って捧げられるという。“鯖(さば)はナイスデイ”と喜んで欲しいのではないか。4月からは、本紙も紙面を拡大し、まちネタを増やして行きたい。「豊中まちづくりフォーラム」や「豊中寄席」も充実させたい、乞うご期待。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.146に掲載)


※まちなかの散歩のバックナンバーはこちらをご覧ください。