【豊中駅前の歴史:43】住宅地の変遷 4(2013年3月)

今号は、玉井町にあるイタリア料理店の笠井さんにお話をお聞きしました。

——先号では「桜通り」などそれぞれのお家の前の通りには情緒のある名称がついていたお話をお聞きしました。
笠井さん:「常盤(ときわ)通り」もその一つですね。「ときわ旅館」ができてその名が付いたと母たちから聞いています。というのも祖父が阪急電車の創始者小林一三さんから、「豊中に新しく駅を造るので、この地で商売をしたらどうか、土地は手当てする」とのお誘いを受け、「ときわ旅館」と「つるや」を開業したと聞いています。それまでは祖父は老松町で料理店を営んでおりました。祖母は元宝塚ジェンヌで、これも小林一三さんのお取り計りだと思います。
——どんな旅館でしたか。
笠井さん:小さい頃の思い出ですが、コの字型の3階建てで、前は広い庭があり大きな蘇鉄が植わっていました。一階には板場(調理室)や仲居さんの部屋、乳母さんの部屋もありました。上階は客室で庭に面して廊下が繋がっていました。「仕出し旅館」で、朝は丁稚さんが手分けして御近所のお宅に御用聞きに行き、夕方料理してお届けする。また、宴会場や接待にもよく利用されていたと聞いています。その後、全日空専属のパイロットや乗務員の宿泊施設として利用されていました。
——今はどうなっていますか。
笠井さん:豊中駅の高架工事が完成する頃に建て替わりました。現在は「トキワビル」となり、1階にはうどん屋さんなどのお店があり、上階は住宅になっています。今はエトレの南玄関から真正面に見えますが、高架になる前は周りには米屋さんや酒屋さん、喫茶店など色々なお店があって、住宅地の玄関口に建っているといった風情がありました。
——高架になってお店の周りは変わりましたか。
笠井さん:閑静な住宅地というイメージが薄れていくように感じますね。奥の方には廃屋になっているお家もあって寂しい気がします。私のお店の前にも昔はもっとお店が並んでしました。食料品店や薬局もありました。「豊中サウナ」もありましたね。今は学習塾になっています。
——玉井町に住宅が出来た頃、共同購入していた日用品や食品では足りなく、「つるや」さんでは色々なものが揃い、大変重宝したとのお話をお聞きしましたね。
笠井さん:駅の改札口に繋がるエレベーターの前、バスの定期券売り場がある辺りにありました。このシリーズのVOL.41(平成24年12月中旬発行)に写真が載っていましたね。
——今日は有難うございました。

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