【豊中駅前の歴史:27】大池公民分館の変遷(2011年7月)

このシリーズは、豊中駅前がどのように形成され、変遷を重ねてきたかを振り返り、これからのまちづくりに活かしたいと考え企画しました。
今回も大池地区公民分館の元分館長の菱田實さんにお話を伺いしました。

——今日は大池公民分館についてお話をお伺いします。以前「『公民館』は『交民汗』と心に決めて」と仰ったことをお聞きしたのですが
【菱田氏】「地域の人達と交流するためにみんなで汗を流す」といった意味です。体育祭、歩こう会、七夕まつり、夏まつり、大池フェスティバル、お餅つきなどを通じて、みんなうちとけ、親しんで爽やかな汗を流して奉仕をしています。中でも体育祭は一番の大きな仕事で、去年で46回目となります。大池地区の人口約13、200人の内、お年寄りから子供たちまで、のべ4、500人の方が参加します。お世話をする人は100名もおられ、長い方では50年もされています。
——菱田さんは長く分館長をされていましたが
【菱田氏】13年間務めました。中央公民館が昭和23年に誕生し、昭和24年に公民分館が桜井谷に始めて出来ました。大池は市内15番目で昭和34年に誕生しました。初代の分館長は当時大池小学校校長の中尾儀夫先生でした。その後民間初の分館長として垣内末夫氏が、昭和53年まで11年間務められました。その次に5代目として、急遽全く素人の私が選ばれ、以前の役員さん諸共引き継ぐ事になりました。最初に赴任した学校である事、子供が大池小学校に通っていた事もありPTA会長を務めたことなどから選ばれたのだろうと思います。
——最初は大変苦労されたのでは
【菱田氏】私は今の事業に携わるまで、約10年間教師をしておりました。元池田師範(現大阪教育大学)の新卒で、最初に赴任したのが大池小学校でした。2年間勤め、上野小学校を4年間、池田附属小学校を5年間勤めました。この間多くの教職に就かれている方々との交流があり強いつながりが出来ました。このつながりが大きな支えとなり、続けて来られたのだと感謝しています。
——一番苦労されたのは
【菱田氏】組織づくりでしょうか。市教委の力添えやかっての同僚の校長・教頭のアドバイスにより、ボーイスカウトの3人の隊長を迎え、組織づくりを行いました。試行錯誤、悪戦苦闘の時期であり、今となっては最も懐かしい時でもあります。曲がりなりにも13年間務めてこれたのもそのお陰だと思っています。
——最近に子供たちにお話をされた中に「公民館でしてはいけない3つ」①お金もうけ②政治のはなし③宗教のはなしを、仰っています。少し長くなりますが、菱田さんの考えを伝えるために、以前に書かれた文章を引用させて頂きます。
【菱田氏】そうですね。いくつか挙げると ・ ベッドタウン的性格が強いですね。男性はサラリーマンが多く、平日は多忙、休日は家庭サービス ・ 高学歴の住民が多い。教育もエリート志向型。マイホーム型。塾が乱立している。・ 転勤族が多い。地縁的相互扶助の意識が薄い。挨拶もしない。・ 男性のボランティアは少ない。会社人間で地域に対して馴染みがなく、照れ屋。・ 公民館の春秋講座は参加者が多いが、女性に偏っており、リーダーになることを嫌う。などですかね。
——いま、思われる事は
【菱田氏】自治会や民生委員会へのお願いも熱意を持って行いましたが、地域の方個々人の心を得ていたかどうか、私ひとり空転していたやも知れないと思う事があります。俳人の芭蕉が「よく見れば なずな花咲く垣根かな」と自らの足元をふと眺め述懐しましたが、私も80歳を過ぎて、「あれでよかったのかな?」と感傷に浸ることがあります。
——いつまでもお元気で、地域を見守ってください。今日は有り難うございました。

(菱田 實氏プロフィール:昭和3年生まれ 本町3丁目在住 元大池公民分館館長 元大池地区社会福祉協議会会長)


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