【まちなかの散歩:46】盥(たらい)の水(2012年6月)

 「盥」。といっても意味どころか、ルビが振っていなければ読める人すら少なくなっている言葉である。「(テアライの約)水や湯を入れて顔や手足を洗う器の総称。今は多く、比較的大きな木製・金属製・プラスティック製などの洗濯盥をいう」 (『広辞苑・第6版』)。
 今や、商売仇の中国企業に売られてしまったサンヨー(SANYO)が得意としていた洗濯機が出来る前に、洗濯板を使って汚れ物を洗っていた器である(「盥」の説明が、本稿の目的ではないのだが…)。

 「亡己利他(もうこりた)」という言葉がある。“もう、懲りた”というのではなく、「自分のことは後回しにして、他の人の幸せを優先する」という伝教大師・最澄による仏教用語である。
共に生きている、働いているということは、“支え合う”ということと密接な関係にあり、誰かに生かされ、誰かに支えられ、誰かと一緒に働いている関係に気づけということか。

 3か月に一度、豊中駅前まちづくり会社が主催する地域寄席・「アイボリー寄席」「新免館寄席」でも演じられる幾つかの長屋噺がある。あの落語の貧乏長屋で馴染みの世界である。
 その中で共通して流れる住民の考え方に「長屋の発想」と言ってもよい“お節介”ぶりがある。「米貸して!」「味噌貸して!」「金貸して!」……、夫婦喧嘩の仲裁、そして、「あんまり嬶(かかあ)を泣かすなよ」と小言を言ってくれる隣人・隠居がいる。ほんの少しのお節介を隣人にするだけで、どれほど、ギスギスしたまちが、ましになるだろうか。少し理屈っぽく言えば、相手の意思・自律性を尊重しつつ、相手が抱えている問題をうまく解決できるように、いかに、解決への過程を支えるかというところだろうか。

 豊中駅前にあった小売市場がなくなって久しい。「市場」を“シジョウ”と読めば、証券市場というように、“私情”を挟む余地のない利益追求を“至上”価値とする厳しい世界である。その結果、言い換えれば、他者から物を奪い、他者を管理して、自己利益を追求した結果、環境問題、民族問題・宗教問題からのテロ行為が頻発し、自己の利益を最大化できない時代に入ったと言われている。
 だが、“イチバ”と読めば、“一か八か”で勝負を決めるという賭けの危うさだけでない、商品を介して会話が成立し、コミュニティの中心としてのセーフティネット(安全網)や、近江商人の“三方よし”の場(世界)の豊さに繋がる存在ではないだろうか?
 手前にかき寄せた盥の水は、その縁を伝って遠く向こう側に逃げる。「どうぞ、お先に!」と道を譲るトラックではないが、「どうぞ、どうぞ」と水を相手に向けると、逆に水は我が方に回ってくる。相手の役に立つこと、支え合う大切さを確認しあって活動すること、こういう支援の関係をまちなかでもっと増やして行きたいものである。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.82に掲載)


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