【まちなかの散歩:81】子どもの教育(2015年5月)
5月。これまで、この欄では5月は穏やかに「こどもの日」を取り上げて来たが、このところ「平和憲法」、「民主主義」、「基本的人権の保障」・・・・・と並ぶ“戦後レジーム(体制)からの脱却”とかで、教科書内容も含めた“子どもの教育”が政治の世界で“まな板”に上げられている。教育、とりわけ学校教育は成長期の子どもに対して、社会の先輩たちから将来の社会を託す・“頼むぞ”の気持ちをこめての価値ある財産を贈る社会的制度(社会的共通資本)である。子供にとっては大きな財産である。しかし、残念ながら多くの場合、親の貧乏が世代を受け継いで、子どもの貧乏に繋がり、その重要な教育を受ける機会が奪われてしまう例が多い。政治が子どもの教育の向上を考えるなら、ゆっくりと親子で話せる経済的・精神的な「親の余裕」を確保する政策を実行すべきである。川崎の中学生が殺されてしまったのには、隠岐の島から出てきて母は余裕を失うほどの生活状況であったとか。「不良をやりたかったわけじゃない。いじめられず生きるには(非行集団の中で)『共存』するしかなかった」との言葉を耳にする。極めて残念である。
じいちゃん子で“猫可愛がり”されたり、本来は文武両道で“健全な精神”をも育まねばならなかったり、良い友達に恵まれない少女時代を送ってしまった子ども。今、そんな精神の健全さ・バランスを欠いた大人達が権力を最大限に行使できる立場にいて、大人から子供まで共有していた財産を奪い、闊歩している。
『国民の祝日に関する法律』によれば、“子どもの日”は子供のためだけの祝日ではなく、(父の“功績”はさておき)「母への感謝の日」でもあるが、ちょっと前の首相と異なり彼らの母は表舞台には出てこないが、今の我が子の振る舞いにどういう思いを持つのだろうか?
映画『七人の侍』は、百姓が米つくりの敵を追っ払うために浪人を雇う。その雇った浪人が死のうが、大怪我しようが、田植えさえできればお構いしという。「誰が主人公で誰が雇われているのか」を改めて考える機会を与えてくれる作品である。浪人を役人・政治家と読み替えると分かりやすい。誰が主人公なのか!
教育の大切さを今更ながらに思う。政治力を駆使して何かをやり遂げようともすることもなく、政治家(屋)になるためにだけ選挙に出る輩、本当に民主主義とは何かを学んでこなかった輩、「国民を飢えさせない、国民を戦争から守る」が政治の役割(菅原文太)であると考えない輩、戦争は基本的人権を抹殺するという歴史を学んでこなかった輩が政治を動かしている。29歳の女性を「国会議員に育てあげることができなかった」と謝るが、そんな人間を育てる期間中を長々と我々の税金で食わせるのか!それを許すのかい?
オランダ南部の町・ハーグにある国際司法裁判所の建物は、米国財閥のロックフェラー財団の寄贈によるものとか。財力・権力・権威の使い方を間違ってほしくはない。“鼓腹撃壌”。権力者が目立たない世の中の方が平和である。「しょうぶ」という言葉は、国際紛争の「勝負」ではなく、屋根にかけて病を払う「菖蒲」として使いたい。
(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.150に掲載)
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