【豊中駅前の歴史:42】住宅地の変遷 3(2013年2月)
今号は玉井町の西村さんからお話をお聞きしました。
——「久しぶりに玉井町界隈を歩きましたが、ずいぶん変わりましたね」
西村さん:「私は昭和33年に此処に嫁いできました。その頃は、日本風の家屋敷が並ぶ閑静な住宅地でした。特に「桜通り」を挟んで、東西に格子状の道が通っていて(京都の町並みを模したとか)それに沿って家が建てられていました。
——「桜通り」とは
西村さん:「駅から高校野球のメモリアルパークの横を通り、箕輪橋に至る道のことです。いまは「本通り」と呼ばれていますが、玉井町1・2・3丁目は、この通りを中心にした地域です。西口のメイン通りですね。」
——桜の木は、今はありませんね。
西村さん:「先の大戦中に焼夷弾からの類焼を避けるため、全部伐採されたと聞いています。飛行場が近いからでしょうか、この辺りもかなり爆撃を受けました。私の家の3軒隣にある玉井公園は、400坪ほどの敷地で、元住友銀行副頭取の社宅でした。10年ほど前のことだったでしょうか、ここから不発弾が見つかり、その撤去作業中は一時避難したことがありました。
——「桜通り」の方が良い名前ですね。
西村さん:「わたしの家の前の道は「吉野通り」と呼ばれていました。この辺りの道は、「春日通り」「小松通り」など情緒のある名前がつけられていましたよ。その頃の住宅は、阪神淡路大震災後、殆ど建て替わりました。
——やはり震災から、この辺りの風情は大きく変わったのですね。
西村さん:「変わりましたね。でも、昭和45年の万博後の変わり方の方が大きかったように思います。関西経済の伸展につれて、市の人口が急増したからでしょうか。それ迄は、箕輪橋に沿って空港まで、子供たちとよく散歩したものです。飛行機の発着が金網越しに間近に見えました。辺りは田んぼや畑が広がっていて、長閑なものでした。今は住宅が建てこんで昔の面影は全くありません。
玉井町界隈は、阪急豊中駅にも近く、便利で静かで住みやすい所ですが、私がここに住まうようになってから、もう半世紀が過ぎました。此処で育った子供たちも自立して、一人住まいの方が多くなりました。互いに声を掛け合っていますが、地域のこうした変化にどのように対応したら良いのか、心を悩ませている問題です。
——今日は有難うございました。
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