【北朝鮮逃避行:20】(2017年11月)

父、母、2人の兄は一週開後に、兵庫県の明延に行きました。明延の社宅から兄たちは学校に通い、父は器用に家財などを作ったりして、しっかり3ヶ月の休暇を過ごしました。私は祖母としばらく服部におり、いつごろからか、祖母と明延に行きました。毎晩、大根ご飯だった事を覚えています。長兄は明延の学校へ編入したとき、5年生で入りました。当時、旧制中学は試験があり、中学入試はとても無理だと言う事で、1年遅らせて5年に入ったのです。2学期の通簿はオール3でした。その後、新制中学校が無試験とわかったので、急遽、3学期から6年に編入しました。小学校の教頭が父の同級生であったことも、話がしやすかったらしいです。「日本にいても勉強は出来てない」と言ってもらったとのこと。順川で、学校を開いてもらったこと、その時、約分、公倍数など教えてもらっていた事は、大きな助けになったと言います。同級生から「お前、なんでそんなこと知っているのか」と聞かれたそうです。
父も3月から生野鉱山勤務となり、一家は生野奥口銀に転宅。長兄は3月のわずかな日数だけ、生野の奥口銀小学校の6年生を過ごしました。
行った日がいきなり試験だったそうです。でも、卒業させてくれました。そして、4月から長兄は生野中学一年生、次兄は生野の奥口銀小学校4年生、私も同小学校1年生の生活が始まったのです。全く無からの出発でした。(完)

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.207に掲載)


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