「ドン・キホーテまちに出る:“はみだし公務員”の述懐」・『たんば(関西丹波市郷友会会報)』第5号(2020年11月1日)

豊中まちづくり研究所・代表の芦田英機が、関西丹波市郷友会の会報誌『たんば』第5号(2020年11月1日)に、「ドン・キホーテまちに出る:“はみだし公務員”の述懐」を寄稿しました。

「ドン・キホーテまちに出る:“はみだし公務員”の述懐」

「今から行ってもええか?」「早く行ってあげて!」「あほぅ!こんな時にどこへ行くんや!」 
あの阪神淡路大震災の激震が一段落ついた時の私・妻・母との会話である。国鉄駅での勤務中に急死した父の退職金で買った建売住宅は半壊状態だった。台風・集中豪雨で被害が予想されれば「家のことも何をおいても役所に出てこい!」。今ならパワハラだろうが、大学院進学を断念し自暴自棄で嫌々市役所に就職した直後に若い鬼部長に叩き込まれた厳命だった。夫を亡くした重病の母の面倒を見るために止むを得ず選んだ「転勤・残業のない職場」。9時~5時で家に帰って勉強できる“公務員”で再起を期した。
だが現実は違った。小学低学年の息子が書いた「父は役所の係長だから“夜が遅い”です」の作文は教師に“早いです“と訂正され、珍しい7時頃の帰宅に「お父さんは今日病気や」と慌てて布団を敷くエピソードに繋がる。

就職した役所は、貧乏で教員を諦め国鉄職員になった父の生活から高給でないことは織り込み済みで、係長でも工夫次第で権限行使できる魅力的な世界であり、犯罪にならない限り首にはならず減給もなく、左遷されれば勉強の時間が取れる有難い業界である。思い切って仕事をと“はみだし”始める。そんな変固者は時代が求める新組織のスタッフに迎えられる。
千里ニュータウン建設、大阪万博関連事業、“都市計画と流通政策の一体化”の「商業近代化計画」策定(商工会議所出向)、大阪大学法学研究科研究生(条例の研究)、財政健全化委員会事務局、大型店出店調整(日本初のスーパー条例)、「商人大学」創設、“快適な都市に新しい産業が育ち・新しい産業が都市の生活者を快適にする”の「産業振興ビジョン」策定、CATV導入、市民主体のまちづくり条例の策定、阪急高架下・市民病院跡地活用委員会担当(柏原高校先輩の松原徳一阪急専務に協力を頂く)、千里ニュータウン再整備計画策定、空港騒音直下の空地活用計画策定、・・・。

「“まちづくり”とは、“まちづくり”に素人の市民がまちの将来像を描き、専門家の知恵を借り、行政と連携し、企業と癒着し、政治家にすり寄る活動である」と自虐的定義をしているが、阪急立体交差化事業完成時、線路沿いのビルの壁面に「歓迎」横断幕を展開した沿線の市民組織「まちづくり協議会」会員を試乗会に現阪急阪神ホールディングスの角和夫会長は招待してくれた。これを機に定期的な情報交換会を始めて関係修復に取り組んだ。襟を正した市と企業との「癒着」の成果でもある。
豊中まちづくりフォーラム」(市で150回、まちづくり会社で150回の連続講演会)では、「履正社」理事長に「教育は産業である」をテーマに講演依頼し、教師出身の議員から厳しい叱責を受けるが「フォーラムは議論の場、異議あればぜひ討論に参加を」と突っ張ねる。関空開港時に大阪空港存置論者を招き、撤去ムードの中で熟慮を促した。
市議会では想定外の質問で私を試そうする議員も何人かいて「総合計画には財政的裏付けが必要ではないか?」と質され「ロマンとソロバンの結合の必要性については十分認識しております」と応答。議場がどっと沸く。さらに「先ほどの答弁にはヒューマンがない」に対し「行政の怠慢、市民の不満ですね」(議長職権でこの部分削除)。「出先職場」は住民と直接接する「先端職場」、「管理部門」は「支援職場」であるとも主張した。

「文系の奴にまちづくりが出来るか!」と揶揄され、阪大で“天ぷら学生”ながら「工学博士」を取得する。「みんなの計画、役所の支援」“市民主体のまちづくり”これは私が提唱し活動を始めた「まちづくり協議会」方式の活動のキャッチコピーであり、後に市長選挙の公約になる理念である。まちづくり条例の制定、まちづくり支援チームの結成、まちづくり支援室の設置と、それまでの「対策」から「支援」へと行政姿勢の転換を図った。2016年に出版した冊子『豊中まちづくり物語~行政参加と支援のまちづくり』は、市民のまちづくり活動に“行政が参加し支援する”という市民目線からのまちづくりの活動記録である。この思想は柏原高校時代に、阪神間での民主主義教育が受け入れられず丹波で情熱を込めて指導して下さった恩師達に負うところが大きい。

定年まで3年を残し部長職で京都女子大教授に転出して大学人を満喫中に、是非にと市長に呼び戻され助役に就任する。小泉内閣の“三位一体改革”で自治体が極度の財政難に陥り、住民サービスの削減・職員へのシワ寄せという状況下での敗戦処理役である。私は在任中の報酬2割カットを自ら課し、部長たちにも退職金3年分割を要請し、公共用地の余剰土地を自ら売りに出る。公用車で移動中に住宅業者・不動産屋に電話し続けて「助役さん、不動産屋ですね」と運転手に笑われた。
「何時でも辞めてやる」と辞表を常にカバンに入れながらさらに意欲的に”役所の改革“に取り組んでいた助役時代だが、手掛けて失敗に終わることも少なくない。手塚治虫(豊中出身)記念館誘致、リバースモゲージ(居宅担保制度)導入、企業の本社機能誘致、有名絵本作家の住民票移転、・・・。「市長、あれ失敗しました」「お前、よう失敗するのう」「バッターボックスにも入らんでベンチに座っとる奴には、三振も出来ませんよ」と言い返す。「大学教授から市の助役になったのが大阪市の関一、磯村隆文、そしてお前だが、市長にならなかったのはお前だけだ」と有名紙編集委員の友が言ったことがある。

そんな私は当然の如く組織から仕打ちされる。係長時代には仕事納め直前の12月25日に転属というクリスマスプレゼント。当時「暗黒大陸」と呼ばれた商工課へ“管理部門”からの転出だった。部長就任時には、課長時代に学会要請で出席する休暇票に承認印をくれなかったその部長から事務引継ぎがもらえず我流で職務をこなす。助役就任時にも、不本意な後継者だからと前任者から同様の扱いを受ける。
現役部長時代に某出版社から奮戦記を勧められ「もっとドロドロしたところを書かないと売れない。上司や町のボスの騙し方を書け」とそそのかされたが、ここでも詳しくは書けない。
縁あって東大の教壇に立ち青春の夢をささやかに味わえたのも”はみだし公務員“を貫いたからだろう。そして今、高校の先輩・鈴木茂子氏(5期生)を中心にした受講生に8年にわたり「敬天まちづくり大学」を毎週開講し、丹波人・笑福亭由瓶(由良宏人)君から「稽古場が欲しい」との要請を受け50回を数える「豊中寄席」を継続して丹波人脈の育成に努めている。

こんな無茶苦茶な公務員生活を送る私を母・子の面倒も見つつ共働きで“後顧の憂い”なく支えてくれた妻を昨夏に亡くし独居老人を余儀なくされているが、都会で育った同級生・同期生に負けないようにと突っ張っては、突き落とし・肩透かし・打っちゃりを食らい、土俵から転落しながらも這い上がれたのは“丹波人の誇り”である。
そして、このような人生を歩めたのは、綴り方運動・芦田恵之助先生の教えを受け継ぎ指導してくださった吉見小学校の高見先生、官舎で母の指導で書き綴った市島から母の実家・谷川までの乗車日記『夜汽車の旅』を掲載してくださった丹波新聞社、鮮烈な苦学経験を聞かせて奨学金と週5人の家庭教師で学生生活の全経費を稼ぐ意欲を維持させてくださった安達五男先生(後に武庫川女子大教授)をはじめとした丹波の皆さんのおかげです。有り難うございました。

(山南町・市島町・春日町で過ごす 豊中市在住)