【豊中駅前の歴史:79】幼い頃の豊中の思い出(2016年7月)

今号はローレルコートにお住まいの狹(はざま)さんにお話をお伺いしました。

——お生まれは豊中ですか。
狹氏:生まれたのは和歌山市内です。私が3歳の時に両親が本町7丁目17番地に移り住みました。実家は戦前までお菓子の製造販売をしておりました。昭和20年7月9日の「和歌山大空襲」で全てを失くし、祖父母と別れ一念発起して大阪に出てきたと父は言っていました。
——稲荷神社の公園のそばですね。
狹氏:その頃は池でした。家の裏には池から田んぼに水を流す水路がありました。水路を隔て豊高の先生や文楽の三味線のお師匠さんなどが住んでおられ、小学校の頃にその三味線のお師匠さんのお家で習字を習っていました。その頃の遊び場は宮山でしたね。神社の前には参道を挟んで池があり、よく釣りをしました。一度池に落ちたことがあり、大変な目に遭いました。お宮さんの境内の裏は公園のようになっていました。遊戯具もありましたが、うっそうとした森の中で遊ぶのは面白かったですね。
——その頃の稲荷神社は恰好の遊び場でしたね。
狹氏:稲荷神社といえば今でも残る記憶があります。大池小学校の1、2年生頃の記憶です。授業の郵便ごっこで私は可愛い彼女に夏祭りに行こうと手紙を出しました。薄暗い雑踏の中、狛犬の辺りで待ち合わせました。浮き浮きして彼女と手をつないで歩き始めたその時、後ろからいつも遊ぶ仲間の声がしました。咄嗟に手を離し後ろを振り返りました。あっと思った時には彼女は真っ暗な闇の中に姿はありませんでした。4年生になって父の転勤で北海道の伊達紋別小学校に移りましたが、豊中を懐かしむ時、いつも出てくる記憶の一つでした。
——北海道での生活は長かったのですか。
狹氏:6年生の夏休みまでです。進学を考え豊中に戻る方が良いと両親は考えたのでしょう。ひとり残った父は製糖会社の起死回生の事業に邁進していました。昭和30年代の池田内閣による砂糖の貿易自由化により大きな打撃を受けた会社は、北海道の砂糖大根(ビート)の製糖を始めました。根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれ、葉と搾りかすは、家畜の飼料として利用されるビートは農家にとっても好都合な作物でしたので、工場の誘致にも好意的だったと父は言っていました。冬は雪が少なく周りの路面は全て凍っていました。スキーよりスケートの方が都合が良く、配達に来ていた肉屋のお兄さんのバイクの荷台に掴まってスケートをしていました。水上スキーならぬ陸上スケートでしたね。
——小学校卒業後はそのまま豊中にお住まいですか。
狹氏:大学卒業後、社会人となり豊中を離れました。戻ってきたのは1999年で、上野東3丁目に住みました。やはり育った町が良いですから。豊中駅前もその間に大きく変わりました。小学校の頃の豊中駅は市電の駅のようで、電車に乗っても知人が多く牧歌的な雰囲気がありましたね。いつしか知らない人が多くなりそのような雰囲気はなくなって行きました。現在は終の棲家としてローレルコートに住んでいますが、やはり直ぐに電車に乗れるのは良いですね。いつでも電車でよその町に行って散策を楽しめます。これで雨に濡れずに駅とわが家が行き来できれば最高ですね。
——今日は有難うございました。

プロフィール/狹 雅則氏 昭和24年生まれ 本町3丁目ローレルコート在住


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