【まちなかの散歩:64】後継者(2013年12月)

 昭和の野球少年の憧れの的であった“打撃の神様”巨人の川上哲治が亡くなった。“川上テツジ”が、いつの間にか“川上テツハル”となっていた。聞けば現役を引退して背番号を77にしたのを契機に名前の呼び方も変えたという。選手時代の成績を強く誇る気持ちの川上らしいが、中学生になったばかりの頃に、映画『川上哲治物語 背番号16』で見たあの“川上”が消えているようで寂しかった。

 その川上は、巨人が日本シリーズで西鉄ライオンズに3連勝4連敗で負けた年、打順4番を長嶋に譲って現役を辞めている。その後監督として“ファンの期待に応える”ため、“勝つため”に掲げた管理野球が“哲のカーテン”として非難を浴び続ける。正直、巨人ファンの私にも“野球の醍醐味”の少ない試合が多かったが、監督として日本シリーズ9連覇(V9)を遂げる。その直後、打率低迷の長島に引退を勧めるが、土下座して現役続行を懇願する姿に1年の猶予を与えてしまいV10を逃す。監督としても晩年は後継者・長島に幹部教育を施していたというが、それまでにして教え込んだ長嶋が川上野球を継承したとは思えない。
 西武ライオンズの監督として9年間で6度も日本一に導いた豊中生まれの森昌彦(祇晶と改名)は、野村克也とともに川上を尊敬していると聞いた。巨人V9時代の正捕手であったから、走者が一塁に出ると必ずバンドという手堅い川上流の戦略を取るのかと思えば、「みすみすワンアウトを敵に与えるなんてことはしない、盗塁かヒットエンドランだ」との考え方で、監督・野村も同意見だという。

 後継者問題は、とにかく難しい。
 黒沢映画『生きる』の中で、役所の官僚制の克服を試みた住民課長(志村喬)の後継者は、役所の縦割りを解消できず、市民に背を向けた楽な仕事振りを復活。課長の地位だけを継承してしまった。
 世襲の多い政治家達の今日の堕落ぶりも甚だしい。かつての全共闘の闘士・徳田虎雄は、医療界の革命を目指し、政治に活路を求めながら病に倒れ、見果てぬ夢を息子に委ねて大失敗。世襲でなくとも、“たらい回し”や内々での後継指名で候補者を立てる首長や議員は、“市民不在”であるという意識があるのだろうか。

 まちなかでも、まちづくりの後継者不足が指摘され嘆いている。延暦寺が信長の焼き討ちに遭う前に、法灯を山形の立石寺(山寺)に移して難を逃れ、再建時に戻したという歴史に学び、しばらく一服しようかという考えが、一瞬頭をよぎる。しかし、「まちづくりが面白い」「まちづくりをやりたい、学びたい」と訪ねて来る学生は少なくない。そうした若者達に「遺言」を伝えながら今しばらく頑張っていきたい。その戦略を練る絶好の機会として正月休みを活かそうと、ゆったり構えながら、今年の締めくくりとしたい。

(『豊中駅前まちづくりニュース』Vol.118に掲載)


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